娘は唯、それを両手で握り締め、その灰色の瞳から雫を流して泣いていた。その頭上からは、無情にも冷たい雫が降り注いでいた。加えて、煙のような霧が一面に、薄く、浅く、広がっていた。冬の深夜である。娘の体力は確実に雫に削がれていたが、それでも尚、娘は街頭の下でうずくまり、泣いていた。
不意に現われたのは、一人の紳士だった。黒いスーツに黒いシルクハット、黒い髭と黒い杖、そして黒い傘が不気味に感じる程に調和していた。紳士は娘の正面から現われ、小人を見下ろす人間のように、人間を見下ろす巨人のように、娘を無言で見下ろした。
娘は、手に持ったそれを、更に強く握り締めた。その手の狭間から、ほんの少しだけ、赤い、リコリスよりも赤い色が顔を出した。が、すぐに天からの雫がそれを流した。娘の流す雫は、もうその殆どが影をひそめていた。
「どうしたんだい」と、ようやく紳士が口を開いた。娘は、今も尚手の、手の内の何かを見ていた。紳士に、その顔を向けることなく、しかし娘は言葉を帰した。
「硝子が割れてしまったの」
「ほう、硝子が?」
「そう、硝子が」
そうか、とようやく紳士はしゃがみこみ、娘に降り注ぐ雫を、その黒い傘で遮った。薄く曇ったモノクルがきらりと光って、娘の顔を映し出した。顔を向けた娘の顔は、何処か縋るつくような、「憐れ」な顔であった。
「硝子を見せてくれるかな」
紳士が微笑と共にそれを請うと、娘の手がぴくりと動いた。と思うと、その白い手は泉に咲く睡蓮の如く、震えながらもゆっくりと開いた。
其処にあったのは、硝子の天使であった。だが、その精密な硝子細工の、右翼の先が少しだけ欠けていた。小指の先程もない大きさの破片が二つ、その横たわった天使の傍に落ちていた。
「手を引っ掛けて、落としてしまったの」
灰色の瞳がゆらゆらと揺れ、其処から一粒の雫が零れ落ちた。
「治す方法、知りませんか」
縋りつくように、娘は言った。紳士の青い瞳と娘の灰色の瞳が、ようやく一本の線を形成した。だが、それも束の間の事であり、紳士は再び硝子の天使に視線を合わせると、小さく首を左右に振った。
「僕には無理だ」
「そう……」
娘は悲しそうに、再びその白い手で、傷ついた天使を包み込んだ。その閉じた手に、大きな手が重なった。先程まで傘を持っていた、紳士の右手であった。雨に打たれながら、紳士は言った。
「いい事を教えてあげよう」
娘は再び紳士を見た。無機質的な表情であった。
「形あるものは何時か壊れる。僕も、君も、天使だって例外なく」
娘はうなだれた様子でこうべを垂れ、不安定な地をぼんやりと見つめた。その様子を淡々と紳士は見つめながら、だが、と言葉を続けた。
「例えそれが形無くなっても、それがあった、という事実は変わらないだろう。それとも、君は形無いものには価値が無いと思うのかね?」
その言葉を投げ掛けられ、娘は少し……ほんの少しだけ顔を持ち上げた。震えるその体の、その唇を揺らし、娘は小さく紡いだ。
「でも、そこに無いと忘れてしまう。記憶は、風化してしまう」
「……じゃあ、こう考えてみよう。翼が欠けただけで助かってよかった、と。それにその天使は、翼を使って空を舞うものじゃないだろう?」
娘の唇から、言葉にならない声が漏れた。紳士は、ゆっくりと右手を娘の手から離した。それに連動するように、娘の手もまたゆっくりと開いた。
娘は右手の親指と人差し指で、恐る恐る天使に結われた紐を摘み上げた。そしてそれを、小さく、小刻みに左右に揺らす。天使が発したのは、優しい優しいベルの音――。
「いい事を教えてあげよう」
天使を見つめる娘に、紳士は優しくそう言った。
「ヒトの形をした者はね、その持ち主の不幸を引き受けてくれるって話があるんだ。もしかしたら硝子の天使も、君を守るために傷ついたのかもしれないね」
灰色の瞳が一瞬で見開かれ、そして揺れた。紳士は尚も、暖かく言葉を続けた。
「でも、負い目に感じちゃいけないんだよ。感謝しなきゃ、それは報われないから」
そして紳士は頭を撫でて、その場から立ち去った。降り注ぐ雫も、包み込む靄も、ほんの少しづつながらも、段々と優しい色を帯びて。
アリガトウ、と硝子の天使を抱いた娘は、何度も何度も、呟いた。
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要するに寝る前に硝子の天使のベルを割ってしまって欝だったので、作品に昇華した訳です。途中で寝てしまったので半分は起きてからの分ですけど。
……しかし携帯でこの分量乙俺。
※最初の空白が上手くいってなかったのでPCから修正