Gula  − 暴食 / 6つ目の物語 −

 青年ハイナーに遇ったのは、緑茂らす公園内であった。
 昼下がり、傍らに本を積み上げ、熱心に読みふける彼。右膝には小さなノートを載せており、何かを走り書きしているのが伺える。
 そんな彼に、ミデンは興味を持った。
「何か、調べ物をしておられるのですか?」
「ああ、はい、ちょっと」
 反射的、といった感じに青年は言葉を返したが、しかしペンを走らせる手を止め、ミデンの方へと振り向いた。
「……貴方は?」
 それは「疎ましい」というよりも、興味を持ってくれたのだとミデンは判断した。
「私は、ミデンと申します」
 にこりと笑い、ミデンは青年の左側へと腰掛ける。
「ハイナーです」
 彼もまた、笑みを浮かべてくれた。
 ――ハイナーの容姿を改めて見て、ふとミデンは思った。ベージュカラーのミディアムショートに、眼鏡姿、色白の人間族……誰かに、似ているような。
「あの――」
「あまり見かけない顔ですけど、冒険者さんですか?」
 ミデンが問うよりも先に、ハイナーが問いを投げかけた。
 放ちかけた問いを飲み込んで、ミデンは答える。
「ええ、吟遊詩人として旅をしております」
「職の方は?」
「プリーストを」
 ほー、と言葉を漏らしつつ、ハイナーは本を閉じた。だが、立ち上がる気配はない。
 今度は、ミデンが問う番である。
 だが、不思議な様に、その問いは彼が最初に放とうとしていたのとは別のものであった。
「ハイナーさんはオルビスの方ですか?」
 当初の疑問よりも、流れによって生まれた疑問に興味が吸い寄せられたのかも知れない。薄々、ミデンは自覚した。
「ええ。オルビスから出た事が無いもんで、恥ずかしいですが職もノービスのままです」
「いえ、そういう方は多いですよ」
「そうなんですか?」
 微笑みながら、ミデンは頷く。
 ノービスは多数派、という訳ではない。特に人間族は。しかし、少ない訳でも無いのは事実である。
 ハイナーは閉じた本に少し視線を落とし、しかし直ぐにミデンの方へと向き直した。
「もしよければ、旅の話を聞かせてもらえませんか? 凄く興味があるんです」
「ええ、構いませんよ」
 少し、ハープを掲げて見せる。
「吟遊詩人とは即ち、「紡ぐ者」ですから」
 言い切った後、ミデンの脳裏をあの疑問が、再度掠めた。しかし。
 ――色白ブロンドの人間族など幾らでもいる。誰かに似ていると思ったのは気のせいだろう。
 ハイナーにねだられるまま、ミデンは自身の経験を語り始めた。職業柄だろうか、その語調はリポートと言うよりは語り部に近い。
 封じられた「魔王」の話、砂漠の中の街の話、最近誕生したという新しい競技の話――。
 ハイナーがあまりにも熱心に聞いてくれるが故に、ミデンもまた時間を忘れ語り続けた。
「――いやあ、本当に色々知ってるんですね」
 気がつけば、日は空中庭園の向こう側へと差し掛かっていた。放たれる光は赤橙の色へと移り変わっている。
「こう見えても、色々な所を旅しておりますから」
「レベルも、相当なものなんでしょうね」
「ふふっ、適応力が高いだけですよ。私は、争いを出来うる限り避けるタイプの冒険者ですから」
「成る程、そういう旅の方法もあるんですよね」
 うん、うん……と頷きながら、やはりハイナーはペンを走らせていた。
 その手の動きを見て、ミデンは言った。
「勉強熱心なのですね」
「勉強熱心というか――そうだ!」
 急に身を乗り出すハイナー。あまりに急な事であった為、思わずミデンは後ろへとのけぞる。その勢いと瞳の輝きっぷりに、ミデンは面食らってしまった。
 話を聞かせていた時も、まるで子供のように目を輝かせていたハイナーだが、今はそれ以上だ。
「お願いがあるんです!」
「な、何でしょう……?」
 ミデンの左手を両の手で握りしめ、ハイナーは言った、
「来て欲しい所が、あるんです」





 報酬は、宿泊場所と期間内の食事。
 「依頼」として訪れたのは、小さいながらも足場一つを有する館であった。まるで、妖精族のものかと見紛う様な。
 ……別に、珍しい依頼でもあるまい。
 誰か――対象は、幼子から老人まで様々に――己の見聞してきたモノを語るという「依頼」。あまり乗り気になれない、正直苦手な類の依頼である。
 この館を見るのは、これが初めてという訳ではなかった。数え切れない程、この街を訪れているというのに、これ程の館が目に入らぬ訳がない。それ程立派な館なのだ。
 初め、ミデンはハイナーが館の主か子息、若しくは使用人か何かと思ったが、門番は飽くまで彼を「客人」として迎え入れた。とは言っても、顔パスと言った感じであろうか。勿論部外者であるミデンについて問われたが、ハイナーの一言と極簡単なボディチェックだけで入館の認可が下りた。
「しかし、立派なお屋敷ですね」
「僕はもう慣れちゃいましたけどね」
 強固な扉の向こうにある、フロアホールがまた広かった。発光性魔法石のオブジェクトが、蝋燭に灯された焔の如く室内を照らす役割を担う。
 緩やかな螺旋階段を上ってゆく。
 案内されたのは、三階の一室である。
 ハイナーによって開かれた扉の向こう、そこは、暖色で纏められた「令嬢の部屋」イメージそのままであるとミデンは感じた。
 そして、天蓋付きのベッドに座るは、とても華奢な少女であった。ふんわりとした金の髪に青い瞳……人形のよう、という言葉が正に正しいのだろう。しかし、その吊り目の持つ力はとても強い。
「ハイナー、遅かったわね」
「あはは、ごめんね」
「……そこにいるのは、誰かしら」
 怪訝そうに発せられたその言葉が、ミデンに向けられていることは明確だ。
「初めまして。私、吟遊詩人のミデンと申します」
 お辞儀をする彼の傍ら、ハイナーが言う。
「公園で知り合ったんだけど、本当に色々知っているらしくて。君もきっと、興味を持つだろうと思ったんだ」
「へえ……面白い話、色々と聞かせてくれるの?」
 彼女の浮かべた笑いは、にこりというより、ニヤリと言った方が正しいかもしれない。
 これは少し、相手をするには骨が折れそうだ。
「私に出来ることは、見聞した話を語るだけです……面白いと思うかどうかは、貴方次第でしょう」
「そう」
 少女の発したその二文字は、あまりに素っ気がなかったが。
「ハイナーが連れてきたのだから、とりあえずは信じるわ」
「じゃあ、僕は何か食べ物を」
「ええ」
 ハイナーが部屋を出たのを見届け、ミデンはテーブルの椅子へと腰掛けた。
「では、先にお名前をお聞きしても宜しいでしょうか」
「リカルダよ。リカルダ・ル・リュビアルク」
 ――やはり、名に「ミドル」がある。人間族でも、妖精族でも、名にこれを有しているのは古い家系が殆どだ。
「貴方のフルネームは?」
 他者にあえてフルネームを問うのも、ある種の誇示のようなものだろうか。
 「ミデン」は彼の実質的な本名である。しかし彼は、ミドルは勿論、姓さえも持っていない。
「……ふふ、冒険者にはですね、通名を名乗るという風習があるのですよ」
 怪しまれるのも面倒なので、そう誤魔化すことにした。
「ですので、ここは「ミデン」と名乗っておきましょう」
「……やな風習よね」
「身の安全を護るために生まれた風習です。申し訳ないのですが、どうかご了承下さい」
「ふーん」
 納得したのかどうかは定かではないが、彼女、リカルダにそれ以上追及する様子は見られなかった。
 さて、とミデンは竪琴を構え直す。
「何から、お話――」
 ――何、だ?
 急に、彼は立ち上がった。ほぼ、反射的に。
 ほんの一瞬、悪寒が駆けたのだ。
「どうかしたの?」
 リカルダは、何も感じなかったらしい。
「いえ」
 言葉を返しつつ、早足で彼はバルコニーへの開口部まで足を進めた。
 バルコニーにも、その先にも、何ら異常は無い。彼の悪寒は、気のせいだというのか。
 だが、僅かに感じたあれは……そう、己に向けられた殺気だ。
 もしや――と、一度は忘れかけたあの人物の顔が、脳裏を過ぎった。





「やはり、貴方でしたか……」
 気配の主が予想通りだったことに、ミデンはつい溜息を吐いた。
 今目の前にいるのは、不本意にも顔馴染みとなってしまった若い男であった。フードに似た緑の被り物に同色のマント、アナカムンと呼ばれる黒いローブ。しかし、纏う衣類とは対照的に、その肌と頬まである髪の色素は、とても薄い。
 この毒メイジの名を、サベルと云った。
「貴方が観念するまで、私は何処までも追いかけるつもりだからな……」
 ミデンが「あるもの」を探求する様に、サベルもまたミデンを興味の対象として捉えていた。裏のない、純粋な興味からの探求であることは、同じ探求者であるミデンも重々承知している。
 しかし、同じであるが故に、あえてミデンはサベルを避けて旅を続けていた。
 今日も今までと同じ様な問答が続くのだろう、そうミデンは考えていた。
「だが……」
 今日のサベルは、いつもと様子が違っていた。
 眼鏡のレンズ越しに、茶色い瞳がぎらりと光る。先端に僅か装飾が施されただけの杖を、サベルはミデンに突きつけた。
 敵意を覗かせながら、サベルは問うた。
「何の目的で、私の弟に近付いた……?」
「弟?」
 思わず語尾を上げてしまったが、意味は直ぐに理解できた。
 「彼」を見た時、ミデンの頭には確かにサベルが浮かんだからだ。
「――ハイナーさんの事ですか?」
 無言で、サベルは頷く。
 この髪質、肌、瞳の色――ただの気のせいだと思っていたが、どうやら本当に血縁者だったらしい。
「本当に偶々ですよ。御家族だとは、今の今まで存じ上げませんでした」
 その言葉に、嘘はない。
「……その割には、すぐに弟の名が出たみたいだが」
「言われてみますと、確かに似ていらっしゃいますから」
 今回、この街に来て関わったのは、ハイナーとリカルダ、加えて目の前の人物ぐらいだ。リカルダも全体的な色素は薄いが、「弟」と聞けば先にハイナーが浮かぶのは当然であろう。瞳の色だって、サベルとハイナーは同じだったのだから。
 尚も、サベルは殺気に近いものを放っていた。しかし、ある瞬間に。
「これ以上……弟に近付くな……」
「しかし、私よりもハイナーさんの方が、まだ私に会いたがっているという感じでありましたが」
「だとしても、だ」
 尚も威嚇は続く。サベルの執拗さはよく知っているが、これは少し異常な気がする。
 それだけ弟が大事、という事だろうか。
「……しかし、私は依頼の受注者で、彼が依頼者。依頼を受けてしまった以上、取り下げられでもしない限り、依頼は遂行するつもりです」
 ミデンとしてはむしろ乗り気になれない依頼である、取り下げるまで言わずとも、短期で切り上げてもらえるならば、それに超したことはない。
「取り下げられない限り、か……」
 杖を下ろし、静かにサベルは言った。
「もう一つ、別の観点から忠告しておこう……」
 気のせいだろうか。その言葉に、これまで程の敵意は感じ取れなかった。
「私の警告が無くとも、その依頼は貴方の方から切り上げるべきだ……」
「どういう事ですか?」
「何れ、解る」
 何年も彼に追いかけ回されているが故か、不本意にもミデンは感じ取ってしまった。その言葉が、どうやら単なる脅しではなさそうだと。
「……ご忠告、一応受け取っておきましょう」
 笑みを出す気にはなれない。
「一応、か……」
 少しの無言の内、サベルはミデンに背を向けた。
「今日はここで引くが……私の目的の為というのも勿論、貴方がハイナーから離れるまで、私は何度でも現れる……この街に居座るのなら、尚更だ」
 ちらりとミデンを一瞥した彼は、そのまま歩き出す。ミデンには何も言えない。ただ、その背を見つめるのみ。
 やがて、サベルはテレポの魔力反応と共に姿を消した。
 彼が消えても尚、ミデンは僅かな時間、口も足も動かすことが出来なかった。
「一体、何を……」
 漸く動いた口から漏れたのが、そんな言葉だ。
 サベルがいつにも無い程あっさりと引いた事も、その彼の忠告のことも……そのどちらの意味も、ミデンは理解出来なかった。
 闇夜に独り取り残された彼は、サベルが消えた場所を見つめながら、ただ忠告の意味を考えていた。





 予想通りと言うべきか、リカルダは語り相手としては非常に手強かった。
 語り初めで「面白くない」と切り捨てる事も多かったし、興味を持てば持ったでミデンの知識以上のものを要求して来た。
 そんな傍ら、ハイナーはただにこにこと笑ってメモを取り、彼女が浮かべた疑問を翌日までには全て調べ上げるのだ。その時間を一体どこで捻出しているのかと思う程、詳しく。
 また、「依頼」を遂行していて気付いたのは、リカルダが非常に大食らいである事だ。一体あの細身の体のどこに食物が入っていくのだろう、と思う程よく食べる。そして、その「食物の調達」という面に於いても、ハイナーは非常に勤勉であった。
 しかし、容姿こそ似ているとは言え、サベルの仏頂面とは全く違う筈なのに――何故、この兄弟を「とても」似ていると思うのだろう。その疑問が、何故だかたまらなく気味悪い状態で、ミデンの心に巣くい続けた。
 四日、五日が経過した頃だろうか。
「……ハイナーさん」
「はい?」
 リカルダの部屋ではなく、廊下でミデンは声を掛けた。
 何日かの二人のやりとりを見ている内に、もう一つ、心に引っかかったものがある。
「貴方と、リカルダさんの関係をお聞きしても宜しいですか?」
「ああ……」
「兄妹や従兄弟、という訳でもないのでしょう。貴方の名には、ミドルがありませんでしたから」
 ハイナー・フロワカルム。先日聞いたそれが、彼のフルネームだ。姓も違えば、ミドルネームもない。肌と髪色だけは似通っているが、それらは決して珍しい発色ではない。
「そうですね……切欠は凄く些細な事ですよ」
 とてもにっこりと、ハイナーは笑った。
「四、五年ぐらい前の話でしょうか。彼女曰く、バルコニーから外を見ていると、偶々近くにいた僕が目に映った……本当に、それだけです」
「それだけ、ですか?」
「ええ」
 ハイナーが嘘をついている様には見えない。勿論リカルダの方に思惑があった可能性も否定できないが、仮にそうだとしても、それを彼に問うたところで答えは見つからないだろう。少なくともこれが、ハイナーにとっての「真の切欠」である。
 それに、些細なことから何かが始まることだってある。ミデンだって、旅を続ける中で何度もそれを実感したし、そもそも今回の件だって、ミデンが彼に声をかけたことから始まったのだ。
「それから、話し相手として呼ばれることが多くなり……今に至る、という訳です」
 つまり、元々は今のミデンと似た立場であった、ということか。
「成る程……何が切欠で交流が生まれるのか、解らないものですね」
「全くですね」
 ふっと笑って、ハイナーはリカルダの部屋を塞ぐ扉を見遣った。
 この屋敷は、どうやら防音性が高いらしい。恐らく、二人の会話は聞こえていないだろう。
「彼女はね、外の世界の話を聞きたいというんだけど、外には出たいとは思っていないみたいで」
「それは珍しいですね」
 普通、鳥篭の外について知れば知る程、自らだって大空に羽ばたきたくなる筈だ。
「幼少からの刷り込み、というものかもしれませんね」
「余り納得したくない話ではありますが、こういった古い家柄なら有り得るでしょうね……」
 由緒ある家柄、不自由ない生活、箱入りの令嬢――これらには、ミデンの臆測も多分に含まれている。が、大方間違ってはいないだろう。
 だから、と両手を腰に当て、伸びをするような形でハイナーは言った。
「話を聞きたがる、何かが欲しくなる……そういう事でしょう」
 彼の表情は苦笑に近い。
 だが……その表情を見た瞬間、何かが背を滑るようなおぞましい感覚がミデンを襲った。
 心の引っかかりは、今尚拭えない。それどころか、更に大きな塊と化して彼の心にのし掛かっている。
 意を決し、ミデンは問うた。
「もう一つ……不躾な質問を宜しいでしょうか?」
「ええ、何です?」
「私の思い違いであればよいのですが……」
 口を出すべき事柄ではないことは解っている。だが、彼はどうしても問いたかった。
 だから、問うてしまった。
「今まで、ずっと……求められたものは全て引き受ける、そうしてきたのですか?」
「ええ」
 ――そう、ハイナーの行動は勤勉を通り越して過保護の域に達している。そんな気がして仕方なかったのだ。
 だが、聞きたいのはそれではない。そんなものは二日目でとっくに解っている。
「私が口を出すべきではない事は解っているのですが……」
「……」
「どうにも、貴方のその行動はやり過ぎだと思えてならないのです」
 出来ることならば、「それ」が思い違いであればいい。
 ……だが、ミデンの願いも虚しく、ハイナーに反論する様子は見られない。ただ、ほんの僅かに驚いた素振りを見せるだけだ。
 信じたくはなかったが、ミデンの予測は正しいらしい。
 間違いない、彼は――。
「貴方、わざとそのような行動を取っているのですね」
「……否定は、出来ませんね」
 あろうことか、ハイナーははっきりとした肯定の意を返した。まだ、無言の肯定の方がマシだった。
「やはり、ですか……」
 ミデンには、もう何も言えなかった。
 彼は、つまり……彼女が「鳥篭」から出ない様、手懐けていたのだ!





 オルビスの街は比較的発展しており、また学問も適度に発達している。故に、規模ではエリニアや下町の図書館には敵わないものの、街中に二つの図書館があった。
 一つの街に二つの図書館、それは生活区画が妖精族と人間族で二分されているが故だ。
 妖精区画の図書館は、ギルド本部の敷地内にある。立ち入り禁止令が出ている訳ではないのだが、それでも妖精族以外の者が利用するのは憚られる。もう一つは人間区画、ステーションから続く大通りの一つ隣、二番通りに位置していた。
 ハイナーとの問答から更に数日後、ミデンは人間区画の図書館にいた。これが他の街であれば妖精区画だろうが堂々と利用していたであろうが、彼はオルビスの有力ギルドの一つと因縁がある。面倒なトラブルは避けたいところであった。
 リカルダとの約束、つまり依頼の時間まではまだ時間がある。人間区画の図書館はギルド本部の図書館と比べて小さいが、しかし「図書館」と名乗るだけの事はあり、それなりの蔵書はあった。当然、来る度に新刊も増えている。
 その新刊の一つを、ミデンはぱたりと閉じた。
 「夢を現実が飲み込む場所」。
 このロマンのないタイトルを冠した本は、あの「赤い砂の砂漠」にある「テララオアシス」に関するルポルタージュだ。そして、悲しいかな。この本は本当に正確に、そして生々しくあの地の現状を書き記している。
 秩序さえ保たれれば都市にさえなったかもしれない、砂原の中の豊かなオアシス。そこに足を踏み入れるのは、立場が違えど、何かを欲する事に囚われた者達。
 言わば、ミデンとて例外ではなかった。知らぬモノを知りたいという、「欲望」。決して欲してはならぬ訳ではなく、むしろ「欲」というものは生きていく為には必要なものであろう。
 しかし、物事には「適量」というものがある。リカルダなどはその点で、やはり「暴食」の域に達しているのだと思った。飲食の類だけではなく、知るという事についても。
 ――人のことを、言えるだろうか。
 リカルダよりも、サベルよりも、「あれ」を追うミデンの方が、比べものにならない程に身を滅ぼす危険性が高い。事実として――。
 彼は左手で竪琴を抱えて椅子から立ち上がり、少し歩いて棚へと本を戻した。そのまま出口へと向かい、若い司書に会釈をする。
 その一連の動作は、彼が思考を停止、拒絶した故の結果と言っても過言ではなかった。
 図書館を出たミデンは、屋敷を目指し歩み出した。
 人通りの多い区域を抜ければ、そこには住宅街が広がっている。リュビアルク家の屋敷は、そこより更に向こうであった。
 ――私の警告が無くとも、その依頼は貴方の方から切り上げるべきだ。
 閑静な住宅街に辿り着いた時、サベルの言葉が、ふと彼の脳裏を過ぎった。
「鳥篭の、主……」
 それは、無意識に呟いた言葉であった。
 しかし、それを呟いた瞬間。彼は、とてつもない悪寒に襲われ、立ちすくんだ。ハイナーの肯定を確認した時よりも、もっと、強烈な。
「……いや、何をしているのでしょう……私は」
 無理矢理頭を振り、微笑、というよりも苦笑を貼り付ける。最も、苦かろうと、それが自然に見えるかと言われると、彼にも自信が無かったが。
 この先の曲がり角を曲がれば、屋敷は直ぐそこだ。
 半ば無理矢理歩き出そうとしたミデンであるが、しかし彼はその足を止めた。
「ハイナー、まだあのような事をしているのかっ!」
 聞き覚えのある声が、聞き覚えの無い口調で、言葉を発しているのが聞こえたからだ。
 それに続く言葉もまた、聞き覚えがある声であると同時に、聞き覚えの無い口調であった。
「これは僕の問題だっ、兄さんには口出しして欲しくないね!」
「お前だけの問題なら俺は口出ししない、でも、違うだろうっ」
 そう、一人称こそ違えど、最初に聞こえたあの声はサベルのものだ。そして、続いて聞こえた声もまた、彼の弟であるハイナーのものであろう。
 ここが屋敷への通り道ではあるが、あの二人の側を通る気にはなれない。かといって、真に兄弟であるならば、外野が口を出すべきでも無いだろう。
 ……結果、一見真っ当な「盗み聞き」の理由を作り上げ、ミデンは曲がり角の向こうに耳を澄ませた。
 ダンッ! と、石畳に足裏を叩きつける音が、一つ。
「久々に顔を出したってのに、いきなりそれっ?」
「久々に見てこれなのだから、言いたくもなる!」
 双方、これが素なのであろうか。
「俺は言ったはずだぞ……現状維持だけは止めろ、と」
「現状維持で何が悪いって言うんだ!」
「何年も何年もぬるま湯に浸かり続けて……共依存になっているという事が解らないのかっ」
 ミデンが感じていた事を、サベルは正に代言した。
 だが、やはり答えは数日前と同じであった。
「構うもんか!」
 淀みない答えに、サベルの言及が一瞬止まった。しかしそれも束の間の事である。
「……他者を、巻き込むというのか……?」
 サベルの声は、震えていた。怒声ではなく、ある種の懇願の様な、そんな悲痛の言葉であるとミデンは感じた。
 可能性は無に等しくとも、それでもノーの答えが欲しかったのだろう。それは、ミデンとて同じであった。
 しかし。
「それの何が悪い!」
「なっ……!」
 返されたのは、否定したかった解以上の、肯定の意であった。
 その言葉に、サベルだけではなくミデンまでもが声を漏らした。
 ハイナーの答えに、一切の淀みはなかった。数日前に、ミデンが問うた時にあった僅かな揺れさえも、そこにはない。
 あの時の「淀み」さえも、偽りだったというのだろうか。
「依存だろうが何だろうが、構やしない。それが僕には幸せな事で、彼女も幸せな事なんだから」
 ――ようやく、だ。サベルの忠告の意図をミデンは理解した。
 彼には、「ありのままの他者」が見えていないのだ――!
 言い切ったハイナーの言葉に、最早先程までの様な勢いは無い。代わりにあるのは、静かなる狂気と呼ぶべきものか。
「それに、兄さんだって変わらないじゃないか」
 淡々とした口調はまるで宣告、断罪の様に。
「調べたい奴が出来た、なんて言って出て行ったけど……兄さんこそ、その相手に迷惑をかけてるんじゃないの?」
 心臓が、とても強く打つのが感じられた。
 その対象は、正しくミデン自身のことだからだ。
 自然と、胸元に手が伸びた。ゆっくりと、しかし力強く心臓を抑える様に。
 ハイナーの断罪が、己にも向けられている様な錯覚に襲われたのだ。
「俺は……」
 私は――と、声もなく口が動く。
 皮肉にも、それを聞いたことで、彼ら兄弟が「とても」似ていると感じた理由までもが理解できてしまった。
 誰もが口を開かぬ中、言葉よりも先に、二人の方の足音が聞こえた。間違いなく、一方の足音であろう。
 盗み聞きをしていたとあっては、バツが悪い。しかし、ミデンは動けなかった。辛うじて、側の壁に背を向け張り付けたぐらいだ。ほぼ、無意識からの行動であった。
 曲がり角に差し掛かる足音。目の合った相手は、サベルであった。
 サベルの顔は苦々しく、彼は一瞬顔をしかめた。恐らく、ミデンもまた同じ様な顔をしているのだろう。しかし、サベルの驚きの素振りはほんの僅かで、直ぐにミデンの正面を通り過ぎていった。
 まるで、ミデンが其所に居た事を知っていたかのようであった。
 ミデンには、やはり何も言えなかった。
「……さーて」
 曲がり角の向こうから、ハイナーの声が聞こえた。先程までとは違う、いつも通りの口調。しかし、今はそれが逆に恐ろしい。
 彼の一言の後に、再び足音が聞こえる。サベルの足音とは違い、ミデンから離れる様に。屋敷に向かってか、別の路地に入ったのか、それは定かではなかったが。
 恐る恐る、ミデンは曲がり角の先へと顔を覗かせた。
 そこには、何時も通りの住宅街と、そして屋敷へと至る道が続いていた。





「ハイナーはまだかしら?」
「さあ……しかし、彼のことでしょう、きっとすぐに来られると思いますよ。きっと、貴方の為に何かを探しているのでしょう」
 リカルダはハイナーの事を見てはいない。少なくとも、意識的には。
 ハイナーはリカルダと言うよりも、リカルダを縛る自分を見ている様である。
 兄のサベルはミデンを対等な立場としてではなく「研究対象」として捉えている。
 ミデン、は――。
「そう……仕方ないわね」
 少し頬を脹らませたかと思うと、彼女は直ぐに何時も通りに、
「じゃあ、ミデン。今日は何の話をしてくれるの?」
「そうですねえ……」
 ミデンは竪琴を構え直す。
 彼女の青の瞳を、彼は直視する事が出来なかった。



前書・目次 // Superbia / Invidia / Ira / Acedia / Avaritia / Gula / Luxuria // 後書


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